2005年 08月 01日
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鳥が好きなんで、自然と鳥に目がいく。
車を運転していても、視界を横切って鳥が飛ぶと顔は前を向いたまま
ヒュッと目だけ横を見ている。
危ないなーと自戒している。
やっぱり鳥好きの友人がいて、彼と車に乗っていても、
同じことが起こり、”危ないよね”とか言いながら、自戒している。
そうは思いながら大型のワシタカ類が飛んでしまうと、もう駄目だ。
頭ごと持っていかれる。
”今の何かな、オオタカ?”
”いや、飛び方が違う。ハチクマじゃない?”
”今時期、遅くない?”
”渡りの途中かも・・?”
バードウォッチャーという人種は、例えば車2台で車両移動中のときにも、前の車と後ろの車同士でも、上に書いたような会話が、携帯とかで交わされる。
知らない人には、”何がなんだか”な世界だろうなーって思う。。
オタクっぽくて、どことなく後ろめたくなるときもある。
だから、分かるとあえて言うけど、オタクって楽しい。
何を通して世界と繋がるのか。
その方法が、メジャーかマイナーか。
その世界を知らない一般の人に対して、オープンかクローズか。
ちょっと考えて、生活に必要か不要か。
今、考えながら思いついたこと書いてるんで、アレなんだけど、こういう判断基準の中で、”マイナー、クローズ、生活に不必要な知識”ほど、オタク度が高くなって楽しくなってくると思う。
オタクって、今の社会だと言葉のイメージが汚されちゃってるし、その汚されたイメージの意味を普通の会話で使うときの方が多いけれど、本来は人生の楽しみ方のひとつの形だったんじゃないかと思う。
(ここから下は、思いつきの勢いで書きます。蛇足的ですが。)
言葉の意味とか言い方は、時代とともに変化してゆくことは、事実だよね。
だけど、今ほどひとつの情報ソースから同一の表現や考え方が、多くの人へと発信されてしまう時代は、過去にはなかったことも事実なんだよね。
テレビや週刊誌とかのマスメディアが、ある物事を決め付けるようにひとつのイメージを作り上げちゃうと、今度はその言葉が本来、生活の中で呼吸していたバランス感覚とか、現実生活の折り合いのプロポーションとかが、強制的に壊されていっちゃう。
今のオタクのことで言えば、オタクだって日常生活を送りながら自分の趣向のひとつとしてオタクをやっている。でも、弱いものを虐待して殺人につながってしまった悲しい嫌な事件とかが過去にあって、ああいうことが起きてオタクって言う言葉が広まってしまった。マスコミって人生にとってネガティブなことをさも事実の様に伝えて、人を差別化しようとする傾向が強いと思う。それに、ポジティブなことをいかにも偽善っぽく伝えてしまうところも。(ここのところが上手く言えないので、感覚的に読み取ってください。僕が思うのは、もちろん程度の差こそあれ、ネガ-ポジ両面とも人はみんな持ってるんじゃないかって事です。)
マスコミが普及すると、力が強すぎて、情報を受ける人の心がだんだん弱くなっていくような気がする。
せめてもっと、個性溢れる、人それぞれの考え方や生活の形があって、みんな同じように悩んだり苦しいときもあるんだよってことを伝えてくれればなって思う。トータルでみんな同じって言うことの表現が極端に少ないって思う。
だから、このブログって言うのが、普段は別に意識しないで暮らしているけれど、そういう自分の個性とか考えとかを色々伝えられるし、相手の思いとかも分かるから、すごいいいものだなーって、、今思った!
健全な人生を送るために、マスコミの弊害に効果のある薬だ。
なんか評論しちゃいましたね、ダラダラ失礼!
車を運転していても、視界を横切って鳥が飛ぶと顔は前を向いたまま
ヒュッと目だけ横を見ている。
危ないなーと自戒している。
やっぱり鳥好きの友人がいて、彼と車に乗っていても、
同じことが起こり、”危ないよね”とか言いながら、自戒している。
そうは思いながら大型のワシタカ類が飛んでしまうと、もう駄目だ。
頭ごと持っていかれる。
”今の何かな、オオタカ?”
”いや、飛び方が違う。ハチクマじゃない?”
”今時期、遅くない?”
”渡りの途中かも・・?”
バードウォッチャーという人種は、例えば車2台で車両移動中のときにも、前の車と後ろの車同士でも、上に書いたような会話が、携帯とかで交わされる。
知らない人には、”何がなんだか”な世界だろうなーって思う。。
オタクっぽくて、どことなく後ろめたくなるときもある。
だから、分かるとあえて言うけど、オタクって楽しい。
何を通して世界と繋がるのか。
その方法が、メジャーかマイナーか。
その世界を知らない一般の人に対して、オープンかクローズか。
ちょっと考えて、生活に必要か不要か。
今、考えながら思いついたこと書いてるんで、アレなんだけど、こういう判断基準の中で、”マイナー、クローズ、生活に不必要な知識”ほど、オタク度が高くなって楽しくなってくると思う。
オタクって、今の社会だと言葉のイメージが汚されちゃってるし、その汚されたイメージの意味を普通の会話で使うときの方が多いけれど、本来は人生の楽しみ方のひとつの形だったんじゃないかと思う。
(ここから下は、思いつきの勢いで書きます。蛇足的ですが。)
言葉の意味とか言い方は、時代とともに変化してゆくことは、事実だよね。
だけど、今ほどひとつの情報ソースから同一の表現や考え方が、多くの人へと発信されてしまう時代は、過去にはなかったことも事実なんだよね。
テレビや週刊誌とかのマスメディアが、ある物事を決め付けるようにひとつのイメージを作り上げちゃうと、今度はその言葉が本来、生活の中で呼吸していたバランス感覚とか、現実生活の折り合いのプロポーションとかが、強制的に壊されていっちゃう。
今のオタクのことで言えば、オタクだって日常生活を送りながら自分の趣向のひとつとしてオタクをやっている。でも、弱いものを虐待して殺人につながってしまった悲しい嫌な事件とかが過去にあって、ああいうことが起きてオタクって言う言葉が広まってしまった。マスコミって人生にとってネガティブなことをさも事実の様に伝えて、人を差別化しようとする傾向が強いと思う。それに、ポジティブなことをいかにも偽善っぽく伝えてしまうところも。(ここのところが上手く言えないので、感覚的に読み取ってください。僕が思うのは、もちろん程度の差こそあれ、ネガ-ポジ両面とも人はみんな持ってるんじゃないかって事です。)
マスコミが普及すると、力が強すぎて、情報を受ける人の心がだんだん弱くなっていくような気がする。
せめてもっと、個性溢れる、人それぞれの考え方や生活の形があって、みんな同じように悩んだり苦しいときもあるんだよってことを伝えてくれればなって思う。トータルでみんな同じって言うことの表現が極端に少ないって思う。
だから、このブログって言うのが、普段は別に意識しないで暮らしているけれど、そういう自分の個性とか考えとかを色々伝えられるし、相手の思いとかも分かるから、すごいいいものだなーって、、今思った!
健全な人生を送るために、マスコミの弊害に効果のある薬だ。
なんか評論しちゃいましたね、ダラダラ失礼!